プロフィール

プロフィール

プロフィールページにお越し頂きありがとうございます。

マッサージ・癒し・健康に関する情報を発信しているライフスタイルブログ、rural Retreat(ルーラル・リトリート)を運営している、たろーです。

"rural Retreat" とは「田舎の避暑地」のような意味を持っており、仕事に追われる日々や人間関係に疲れてしまい、癒しを求めている方や、マッサージ、瞑想、ヨガ、マインドフルネスといった、癒し好きな人達が集えるような、隠れ家と言いますか、心の拠り所になるようなブログに成長できれば嬉しい限りです。

とにかく、マッサージや癒しに関する事が大好きなので、同じように共感できる人や、波長の合う人達と残りの人生関わっていけたら、幸せだなぁと思っています。

おかげさまで当ブログも、限りなくスローペースではございますが、月間28,636PV(2021/9)まで成長することができました。

これからは、もっともっと、みなさまのお役に立てる情報を届けられるように頑張って行きたいと思っております。

また、SEOの攻略はなかなか難しいですが、狙ったキーワードでの上位表示はかなり精度が上がってきておりますので、ライティングなどWEBマーケ関連のお仕事を探されている方は、こちらからをご覧いただけると幸いです→仕事依頼

 

たろー @taro_retreat

北海道生まれ。アメリカ東海岸の三流大学卒。

現在、自称マッサージブロガー&ライター

元セラピスト&なんちゃって商社マン。

住み:北海道→東京→アメリカ東海岸→東京→北海道

仕事:温泉でマッサージ→リラクゼーションサロン経営→バレエカンパニーでトレーナー→Googleでマッサージ→貿易商社→ブロガー

といった感じです。

 

特徴

  • 何事も深く考えがちだが最終的には楽観主義
  • 悩むことも多いがあまり引きずらない
  • ストレス耐性は強めだと思う
  • 脳内手ブレ補正が必要なほど考えがめちゃめちゃブレる
  • 気分が乗ればはっちゃけるが基本ソバーキュリアス

 

当ブログで伝えたいメッセージ

happiness only real when shared

Happiness only real when shared.

You are the only "You" in this world. You don't need to compare with others. Never become humble. Never hurt yourself.

Don't worry. You just keep going on the way you really want as yourself, and one day the moment you can share happiness with will definitely come to you.

You are too beautiful to ignore in this world.

Let's go on a journey to heal your mind and find your own retreat.

 

まぁ簡単に言うと、

「幸せを誰かと分かち合いましょうよ」

ってことです。

孤独もシェアできたら最高ですね。

 

たろーの人生早見表

中学まで北海道の田舎育ち→

高校は親元を離れ札幌→

大学はアメリカのMaine州→

卒業後一年半ほど人生お休み→

現実逃避から抜け出し東京でマッサージセラピストの仕事→

リラクゼーションサロン経営→失敗→

バレエカンパニーでトレーナー→

Googleでマッサージ→

将来に不安を感じ貿易商社に転職→

都会生活に疲れ地元北海道に戻る→

やっぱり好きな事を仕事にしたくマッサージブロガーとして活動開始

ざっと今までの人生を振り返るとこんな感じです。わりと遊牧民的に暮らしていました。

良く言えば好奇心旺盛なんですが、まぁ、なにかと飽きっぽい性格なんですよね。。

新発売には必ず食いついちゃうし、コレだ!って決めても、う〜ん、やっぱりちょっと違ったなぁなんてすぐに見切っちゃうし。自分でも笑えてきちゃうほどです。

だけどね、色々な事に挑戦して挑戦して挑戦して、自分の本当にやりたい事を見つけて行く作業ってとても大切な事だと思うんですよね。

やっぱり好きなことをして楽しんで生きていった方が、人生って充実するんじゃない?ってのが今の僕のテーマになっています。

これは別に他人に強制するつもりもないし、プラカード掲げて声高に叫ぶ気もないのですが、「好きな事を仕事にしよう!」から始まって、「好きな事で食べて行くなんて難しいよなぁ」→「やっぱ現実見ようぜ」→「好きな事を仕事にしなきゃって囚われる必要はないよ」→「なんか仕事つまんないなぁ」→「オレの人生ってこのままで良いのかな?」→「やっぱり好きな事を追求して行った方が人生楽しくない?」にシフトして行くまで、紆余曲折があり、自分自身と自分の家族の人生について、何度も何度も深く考えて辿り着いた今の答えがコレなので(もちろん今後の人生で考えが変わる事もあるでしょう)、この、ありきたりで誰もが唱えている「好きな事で生きて行く」ってテーマを、少しだけ深く考えているような人達と関わっていけたら、なんか楽しそうだよなぁなんて思っています。

一応、好きな事と嫌いな事はこんな感じ↓

好き

【映画】
中学の頃からずっと好きで、豪華なホームシアターで映画を観まくるのが夢。
でも仕事にできるほど評論は上手くない。
歴代BEST3=告発、IN TO THE WILD、インターステラー
好きな俳優=マシュー・マコノヒー(演技上手い)、ベニチオ・デル・トロ(渋い)、ルーニー・マーラ(ミステリアス)、石橋静可(才能に惚れた)、他いっぱい

【音楽】
嫌いな人っているのかな?
GLAYは好きだけど、他も何でも聴く。
アメリカの80-90'sロック、ヨーロッパのメタル、J-POPなどなど。
この歌手!ってよりは、基本良い曲が好き。
よく聴く=GLAY、尾崎、ミスチル、米津さん、ヨルシカ、緑黄色社会、Ado、あいみょん、ミセス、sumika、ワンオク、back number、安室ちゃん、ELT、春茶さん、MR.BIG、BON JOVI、Leona Lewis、Harem Scarem、Savage Garden、Yirumaなど。
何を血迷ったか、一時期だけものまね事務所にいた経験あり。(福山さんオンリー)

【野球】
小学校から高校まで野球漬け。
アメリカの大学でもちょっぴりプレー。
でも野球で食べてく才能はなかった。
けど、いまだに理想のピッチングやバッティングフォームを考えちゃう。
コレ、元球児あるあるだよね。

【スポーツ全般】
観るの好き。
スポーツやってたらチャンネル止めて、嫁にグチられるやつ。

【小説】
通ではないけど、ミステリー系と文章綺麗系が好き。
貴志祐介さん面白い。

【旅行】
やっぱりタイが好き。
世界中のマッサージを受けるのが目標。
温泉も癒されますね。

【食べ歩き】
美味しいものは何でも好き。
タイ料理を筆頭に世界各国の美味しいもの探すの大好き。
嫌いな食べ物はほぼ無し。

【マッサージ】
Ofcourse!
するのもされるのも好き。
ライフワークにしたい。

嫌い

「横柄な人」

「人の痛みに気づこうとしない人」

「自分の物差しでしか物事や価値を測れない人」

って、嫌いセクションはすべて「人」になってしまいましたね。

要するに、心の狭い人が好きじゃないんですね、たぶん。

もっと癒されていて、心に余裕を持つことができたら、幸せを感じる機会も増えるだろうに・・・

マイケル・ジャクソンやジョン・レノンのように、世界平和の実現なんて大きな事は言えませんが、少なくとも自分の周りには、広い心を持った人達で溢れて欲しいと願っています。

そして、みんなの孤独さえも分け合う事ができるような、そんな癒しの心を持てたら素敵ですよね。

 

今までの人生と、その時々の思い

ここまで、こんな1人のちっぽけな人間のプロフィールを読んで頂きありがとうございます。

「考え方にちょっとだけ共感できるなぁ」と思ってくださったり、「なんか変なヤツだけどもう少しだけ読んでやるか」って方は、この先で、僕の今までの人生と、その時々に思っていた事などを飽きるほど書いていくので、寝落ちするまでお付き合いください。

 

すべてが輝いていた幼少期〜中学まで

北海道の"ど"が付くような田舎で生まれ育ったわけなのですが、道産子らしくのびのびとのほほんと育ったようで。小学校低学年ぐらいまではかなりおとなしく、家で1人でゴジラと粘土で対決させて遊んでましたね。この頃から想像力フル活用で遊んでいたので、今の妄想癖もこの幼少期の名残りでしょう。

小学2年の時に野球に出会ってからは、内気な性格に完全にバイバイしていましたね。四六時中野球の事ばかり考えて、実際に野球漬けの毎日を送っていたので、その辺では敵なしの無双状態になっていました。そりゃあ、今にして考えても、大好きな事を思いっきり楽しんで、誰よりも練習していたんだから、上手くならないハズがないですよね。仕事論とか成功論の全ての答えがここにありそうですよね。好きな事を楽しんで、誰よりも作業している人には到底敵いません。

話は僕の小学校時代に戻りますが、色々と習い事をさせられていたのですが、野球で上手な体の動かし方を習得したおかげで、スキー、クロスカントリー、剣道、水泳と、ちっちゃな町レベルだと、ほぼ全てのスポーツで1位か2位でした。

勉強は好きでも嫌いでもない感じだったのですが、幸い暗記力だけはまずまずあり、テスト5日前ぐらいから「80点取れればいいや」的なノリで勉強して、実際にアベレージで80点以上は取る感じでしたね。10人いたら上から3番目ぐらいの成績です。この状態っていうのが今でも当てはまっていて、まさに器用貧乏と言いますか、何をやってもまずまずは熟せるのだけれども、中の上止まり。ちょっと粉飾決算しても上の下っていう殻から抜け出せずにいます。でも、興味の無い事はとことんやる気がでないので、好きじゃない仕事をやらせたら、自分も周りも驚くほどのクズさ加減を発揮します。

中学生になると野球以外でも、音楽や映画や女の子なんかにも興味を持ち始めて、GLAYや尾崎豊なんかを聴いて海で友達と青春を語り合うのが一番楽しかったなー。なんて、もう戻れぬ青春を嘆いても仕方ないのですが、やはり中2辺りのあの頃は、カーペンターズに負けないぐらい Top of the world に君臨して、青春の輝きを放ちまくっていました。

確か、中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」でも似たような表現があったのですが、この頃の多感な時期に受けた感動に比べると、これからの人生で待ち受けているのは、その感動の劣化版でしかないと、、、そうならないよう望みたいものですが、誰しも Yesterday once more と切望することはありますよね?

ちなみに当時観たタイタニックの影響で映画に心酔します。ディカプリオとブラピは神でした。

 

耐える事を学んだ高校時代

親元を離れて札幌にある野球の強豪校に進学するという、人生で最初の大きな決断をした訳なのですが、同時に人生で最初の大きな挫折を味わう事になったのです。結局は田舎のお山の大将だったって事ですよね。

北海道一の強豪・伝統校だったので、周りの野球エリートの中に入ると、僕なんか下の下でした。とにかく練習に食らいつくのがやっとで、何度も体力の限界突破xサバイバーしたし、怪我も沢山したし、好きだったはずの野球が、悲しいことにもやは拷問でしかなかったですね。

よくまぁ3年間も辞めずに耐えられたなぁと思います。野球やるために親に無理言って高い私学に通わせてもらって、札幌で一人暮らしまでさせてもらってなんて考えたら、辞めるという選択肢は必死に金庫を何重にもして閉じ込めてたんでしょう。ほぼ毎日辞めたいと思ってましたけどね笑。

おかげで高1の夏は甲子園に出させてもらったりと(スタンドで踊ってただけですが)最高の置き土産もできました。

ちなみに、よく苦労は買ってでもしろと言いますが、アレはどうなんでしょうね?部活で散々辛いことを経験し、沢山地獄を見てきたので、普通の人よりは辛いことに対して耐性が強いと言われると、全然そうではなく、今も苦しい時は苦しいし、辛いときは逃げ出しちゃいます。そもそも、その理論が正しいのであれば、もっと辛い練習に耐えてプロ野球選手になった人が、自殺してしまったり、薬物依存になってしまったりはしないはずですもんね。なので、無理に苦労する必要はなく、若い時にするべきなのは、色々経験して、挑戦して、失敗することでしょう。

勉強の方はと言うと、入学して最初のテストで、900人中100位以内に入れたので、完全に舐めきってしまいましたよね。卒業時は見事に半分以下の順位に下がっておりました。当然です。授業中の8割は寝ていて、2割は漫画本を読んでいましたから。テスト勉強すらした記憶がありません。

この頃に洋楽にハマって、アメリカのロックやパンク、ヨーロッパのメタル、UKロックなど、とにかく色々と漁っていました。

 

将来に対して余裕しかなかったアメリカ留学時代

高校3年間で1ミリも勉強していなかった僕ですので、ストレートで一流大学なんて目指せるはずもなく、かと言って肝心の野球の方でも推薦で入れる大学もなく、そのくせ何故か浪人してまで勉強したくないという、ちょっともうお手上げ状態だったわけです。

このまま三流大学にでも入って、適当にキャンパスライフでもエンジョイしようかなぁと思っていた高3の夏休みに、たまたま目にしたのが、留学の専門学校のパンフレットだったんですね。「おっ、とりあえず英語でも話せれば、この先なんとかなるんじゃない?」と、ほぼ即決でアメリカ留学を決めてしまいました。

1年間、東京の専門学校で英語を学んだ後、晴れてアメリカのMaine州にある大学に入学することになりました。北海道も寒いですが、メイン州は冬場-20度も当たり前のヤバいところでした。でも、アメリカでの4年間は本当に濃密で、人生のハイライトって感じでしたね。高校の軍隊のような窮屈な部活生活を抜け出して、一気にフリーダムの国アメリカデビューですからね。近年の氷川きよしさんばりに解き放たれた感が出ていたと思います。

アメリカの大学は出席率が重要なんで、授業はほぼ100%出ていましたが、それでも1日2-3コマなんで、暇な時はスタバでフラペチーノ買って湖にドライブ行ったり、テニスにゴルフにビリヤードにボーリングにバスケにサッカーに、毎週末ホームパーティーと、ゴシップガールかビバリーヒルズ青春白書さながらのキャンパスライフを繰り広げていました。カラオケ屋に行くために4時間ドライブでボストンまで行って、ついでにハーバードとMITでトイレして、また4時間かけて帰るという離れ業なんかも良い思い出です。

一つ後悔があるとすれば、もう少し高いレベルの大学を目指してトランスファーするべきだったのかなぁとも思います。

ずっと野球しかやってこなかったし、高校3年間全く勉強していなかったので、てっきり自分は勉強ができないもんだと思い込んでしまっていたんですよね。

選んだ学部も、自分にはスポーツ系の道しかないものと決めつけてしまっていたので、スポーツ経営学という、なんともざっくりしたものでした。これがしかし、アメリカの三流大学とはいえ、学部首席になってしまうんですね。なにやらレターは届いていたのですが、あんまり興味がなく、表彰式に行かなかったら、主任教授に怒られるというオチでした。

あっ、これは留学生あるあると言うか、留学の副作用みたいなモノなんですけど、何故か留学を経験すると、自分自身全く実力もないくせに、根拠のない自信だけがついて、大物になった気分になるんですよね。プラス、親のスネかじり虫で金銭的な不安が一切ないという無敵の鎧をまとっているので、向かうところ敵なし、将来の不安もなし、自分は何者にでもなれる、パーフェクトヒューマンの誕生になるわけです。

 

人生を舐めきっていたニート時代

すでにパーフェクトヒューマンへと変貌を遂げてしまっているので、大学卒業後はとどまることを知らないクズさ加減でした。まずはアメリカでスポーツ教育の日系企業で働く予定だったのですが、初日に社長のカルト教的な教育方針に楯突いてクビになるという秒殺劇。行き場を失った何者は、日本に帰国し、尊敬していたスポーツトレーナーが経営しているジムに入社するも、先輩トレーナーの給料の低さに愕然とし僅か3日で退社。

その後は、アメリカで出会い意気投合し、同じパーフェクトヒューマンに成り果てていた親友と、志願して同時に企業の面接を受けてみたり、キャンドルの輸入販売をしてみたり、ヘンテコな情報商材を売ってみたり、訳のわからん商標登録をしてみたり、FXに手を出してみたり、何故かものまね事務所に所属したりと、何でもできると思っていたパーフェクトヒューマンが、何者にもなれずにもがいていました。

完全に人生を舐めきっていた世間知らずだったわけです。蜜に群がる大人を冷めた目で睨んでおきながら、自分は何に情熱を捧ぐべきかわからずに途方に暮れていました。

 

マッサージとの出会い、そしてセラピストの道へ

大学を卒業してから約一年半の暗黒時代からなんとか抜け出し、やっと真面目に就職しようと決意するも、本当に入りたいと思える会社や、やりたい仕事が全然見つかりませんでした。

また、どうしても自分がサラリーマンになるというイメージを持てなくて、いよいよどうしたものかと悩んでいた時に、とりあえずの繋ぎとして選んだのがリラクゼーション業界への就職でした。

スポーツをやっていた時から、マッサージに対してなんとなく良いイメージを持っていたのと、なにやらリラクゼーションセラピストにはとりあえず資格のようなものは必要ないという情報は得ていたので、ずっとスポーツもやっていたし、アメリカでもスポーツ経営を学んでいたので、内定はもらるだろうなという安易な気持ちがきっかけでした。

予想通りスムーズに内定が決まり、マッサージの研修が始まるのですが、これがまた想像していたよりも奥が深く面白くて、どんどんマッサージの魅力にのめり込んでいきました。研修中にも関わらず、他の研修生の教育を頼まれるほど上達も早く、これは天職なんじゃないかと本気で思えるほど楽しかったのを覚えています。

東京都内の温浴施設でセラピストデビューしてからは、順調に経験を積んでいき、充実した毎日を送っていました。仕事を始めて1年ちょっとで、指名客の社長さんに勧められて、リラクゼーションサロンを経営するも、1年足らずで閉店するなんて失敗もありましたが、その後、タイに1か月滞在して、タイ古式マッサージとオイルマッサージの資格を取ったり、また温浴施設でマッサージしたり、新人の研修担当、バレエカンパニーでマッサージトレーナー、六本木ヒルズのGoogle会社内でオフィスマッサージ、個人で出張マッサージと、約7年間、様々な職場でセラピストとして腕を磨いてきました。

年に一度はタイに旅行に行って、マッサージを受けまくったりなんかもしていましたね。

 

セラピスト卒業、そして商社マンへ

セラピストとして働いている時に、今の妻と出会い結婚するのですが、少し問題があり、子供はできないだろうと思っていました。

妻もセラピストをしていたので、子供がいなくても、2人で仲良くやっていければ、お金に困ることはないし、毎年海外旅行には行けるし、別に悪くない人生だろうと考えていました。

僕は元々、どうしても子供を作らなきゃダメだというタイプではなく、充分幸せだったのですが、若いうちに、少しでも可能性があるのなら努力してみようということで、体に負担の少ない漢方で不妊治療を行うことにしました。

すると、2年ほど経過した後に、奇跡的というか、ものすごく幸運なことに、子供を授かることができたのです。

とても嬉しかったのですが、同時に「父親としてオレはこのままで良いのか?」という不安も襲ってきました。一度、サロン経営で失敗しているし、もう一度会社を興して成功する自身もなく、このまま資格のないリラクゼーションセラピストとして働き続けて、子供に胸を張れるのかという不安です。

セラピストという仕事に誇りを持てない、情けない自分がそこに現れてしまいました。

そう思ってしまったら最後、その時点で30歳は越えていましたし、一般企業に転職する最後のチャンスだと思い、すぐに行動に移しました。かと言っても、新卒で一般企業に入社したわけでもない、30過ぎの完全に異業種からの未経験というスペック最弱マンを、快く受け入れてくれる企業は皆無だという事ぐらいは理解していたので、自分の唯一のアピールポイントである、アメリカ大学卒業と多少の英語力を生かせる、海外営業か貿易の仕事に絞って転職活動をしました。

幸運にも意外と早い段階で、小さな貿易商社に採用してもらい、すぐに働き始めました。

国産メーカーの自動車部品を海外に輸出する仕事で、自動車部品に関しては全く無知で好きにはなれなかったのですが、貿易に関してはなかなか興味深く、英語もほとんど苦労しなかったので、予想よりも苦にならずに、むしろ良いモチベーションを保ちながら仕事をすることができました。

社員が15人ほどの小さな会社で、営業の仕事自体は信頼関係の構築が重要な業界だったので、直接海外の顧客の元に頻繁に足を運んで、製品を買ってもらうという、ザ商社マン的な泥くさい営業をしていたのですが、社内のオペレーションは日本企業らしからぬ、かなり合理的で効率的なものだったので、なかなかの業績を収めていましたね。

僕自身もスパルタ上司の下でみっちり鍛えられたので、かなりのスピードで上達している実感がありました。

ただ、オープンな会社ということもあり、データを開けば会社の業績から上司の給料まで全て丸分かりなんですよね。仕事に集中できている時は忘れられるのですが、辛い事があったり、上司に怒られたり、真夏の倒れそうなぐらいの暑さの中でイライラ顔のサラリーマンと一緒に満員電車に揺られている時なんかに、「はぁ〜、あと20年必死で働いて、残業して、接待して、出張行きまくって、あれぐらいの給料かぁ。」なんて、自分の人生を見切ってしまう悪いクセが出てきてしまうんです。

子供の未来のために決めた仕事なのに、実際に子供と一緒にいられる時間は少ないだろうし、東京で暮らして子供に良い教育を受けさせるにはかなりのお金が必要になってくる、これはもう自分のやりたい事に挑戦するなんて夢のまた夢だなと確信しました。

決定打は、子供の出産予定日付近に、2週間の中東出張を言い渡された時です。バングラデシュとパキスタンだったのですが、当時パキスタンでは頻繁にテロが起こっていて、バングラデシュも1カ月前に日本人がターゲットになったテロが起こったばかりでした。

事情を説明して、出張の時期をずらしてもらえないかお願いしたのですが、「お前は大きいチャンスを潰すのか?これを掴もうとしないのなら、今後お前には当分チャンスは巡ってこないぞ。」と。

初めての子供が生まれる時に、そして妻も人生で最も支えが必要な時に、僕は仕事の為に死の危険もある国に行かなければいけないのか?会社はそれすら考慮してくれないのか?

すーーーっと音を立てるように感情が消えていき、悔しさなのか、無力さなのか、やるせなさなのか、気づいた時には山手線のホームで涙が流れていました。妻にどう説明したかは覚えていません。

 

東京に疲れ、地元の北海道へ

予定日より10日ほど早く生まれたため、出張と被らずに済んだ事は、人生で一番の幸運だったかもしれません。

生まれたばかりの子供を抱えて、そして北海道から駆けつけた、久しぶりに見た両親の嬉しそうな顔を見て、北海道に帰る決意をしました。

これ以上東京で疲弊するぐらいなら、田舎で安心して、お金の心配もせずに暮らしたいと思ったのです。

父は田舎で会社を経営しており、僕は大学まで何不自由なく暮らして来ました。

僕自身が子の父になる上で、最低でも親父ぐらいのレベルには達していないといけないんだという勝手な父親像で、自分自身をがんじがらめにしていたのかもしれません。

家業を継ぐことで、その重圧から解放される気がしました。

妻は神奈川の出身で、親も、仲の良い兄妹も友達も、みんな東京近郊に居たので、さすがに北海道に帰るという決断には相当反対されましたが、なんとか了承してもらいました。

東京でずっと暮らして、仕事に追われ続けていたら、僕は無気力人間になっていたと思うので、今こうして好きな事に取り組むことのできる環境に身を置くことができ、妻には本当に感謝です。

さすがにすぐに帰る心の準備はできていなかったのと、子育てが少し落ち着くまでということで、もう1年は東京に残ることになりました。

子育てには積極的に参加したかったし、時間も限られていたので、派遣社員として、某光学機器メーカーの貿易部門で1年間だけ働くことになりました。

前職での経験は7カ月しかなかったにも関わらず、かなり成長できていたせいか、仕事に関しては結構余裕だったと思います。

むしろ、日本企業の生産性の低さを、これでもかと見せつけられるくらい、非常に古風な職場でしたね。

予定通り1年働き、妻と子供の3人で、僕の故郷である北海道に戻ってくることになりました。

現在は、実家の家業を手伝いながら、やはり大好きなマッサージや癒しについてもっともっと情報発信をしていきたいと思い、このブログを運営している次第です。

 

お粗末なプロフィールを最後まで読んで頂きありがとうございます。

ここまで辿り着いてくれたからには、なにかしら波長が合うのかもしれないので、お気軽にメッセージでも頂けたらありがたいです。

お仕事の依頼なども、ライティングやWEBマーケ関連でお役に立てることがあればご協力させて頂きますので、気軽にメッセージ頂ければ幸いです。

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